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凪の人
海辺に住んでいました。母方の祖父の家も、わりと海の近くで。祖父が私の家に来るときは、自らが操舵する小さな船が足代わりでした。私が幾つのときかは忘れましたが、祖父に「なぜ車で来ないの?」と尋ねたら、「海には信号がないから車よりも早く着く」と教えてくれました。そして造船所が見える波止場で、幼い私に1冊の本をくれました。これがいちばん古い祖父との記憶です。本には厚みがあって、『小公子』というタイトルでした。
祖父の本棚には、有名作家さんたちの全集が並んでいました。活字をとても大切にする人でした。畳に広げていた新聞紙を踏んでしまったときに、「むやみに活字を踏みつけてはいけないよ」と言われたことがあります。祖父に躾けられたのは、このひとつだけです。祖父に会いにいくと、燗酒を飲みながら煙草を燻らせ、本を読んでいる姿をよく見かけました。祖父の部屋は湯気と紫煙でユラユラとしていて、日本酒と煙草が混ざった独特のにおいがしていたことを覚えています。そこにいると咽せるので、あまり長居はしませんでした。子どもには、ちょっと呼吸しにくい空気だったように思います。帰り際に声をかけると、「本を買いなさい」とお小遣いをくれていました。
あれから何十年も経っているのに、喫煙できるこぢんまりとした角打ちや、ほろ酔いの人に囲まれた終電の中で、「あれ?お祖父さんの部屋のにおいがする」と感じることがあります。すると決まって、あの日の波止場が浮かびます。
従兄弟姉妹の集まりで、祖父に本をもらった記憶を話したことがあります。すると「私も、もらった!」「えっ?もらってないよ!」と声が交差。祖父は、全員の孫に本を買っていたわけではないようです。となると私は、「選ばれし孫」ということで。ちょっと嬉しくなりました。従兄弟姉妹たちとの会話も弾み、少しお酒がまわってきた頃、ふと不思議なことに気づきました。母方の親族は、ハッキリ・スッキリとした目鼻立ちが特長です。しかしその中で、あっさり・まったりした顔立ちがぽつりぽつり。本をもらっていない従兄弟姉妹はハッキリ・スッキリ顔族、本をもらった従兄弟姉妹はあっさり・まったり顔族のような…。
「お祖父さん。なんですか、このルッキズム的な仕分けは」。
祖父に真相を聞くことは、もうできません。でも、この顔が本との縁を結んでくれたのなら、私はあっさり・まったり顔族に生まれてよかったなと思っています。
WRITTEN BY kAwAucHi
タバコは3歳でやめました。文章を書いたり、企画を考えたり、進行管理をしたり。職種がふらついています。